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春と空(くう)

いつのまにか桜が、人間世界を惑わすかのように咲き始めました。
4/1エイプリルフールのころに満開になるとは、なんとも、
奇怪な話ではありませんか。
すべては嘘、すべては空、桜はそう告げるために、青葉のない幹に
突然、花だけつけるのだと、アタシはときどき思います。
桜吹雪が去ったあと、今年も人間は、隠された自分を仏の鏡面にだけ
照らしだし、仮面をかぶって街路にでていく。

「あなたがすることのほとんどは無意味
であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変える
ためではなく、世界によって自分が変えられ
ないようにするためである」 (ガンジー)

この恐ろしい思想はガンジーという仮面を被ることで、
思想はまるで個を離れて永遠性を獲得した。
このようなことが、すべての世界を覆っていると感じたころより、
アタシは、感性の世界だけを愛撫するようになり、
それは、それほど虚無なことではないと確信した。

猿之介の『空ヲ刻ム者 ―若き仏師の物語―』を観てきた。

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若き澤瀉屋の頭領が、いま、何をやりたいのか。
自分は、伝統芸能という重箱のなかで、どう飛翔して
いきたいのか。
明確に伝わってくる。
先代猿之介のヤマトタケルは大きな「気」のスケールを
語っていた。
それは
『何か途方もない大きなものを追い求めて、私の心はたえず
天高く天翔けていた。天翔ける心、それがこの私だ』
にこめられている。
俺はこのセリフを聞いたとき、歌舞伎座でボロボロ泣いた。
なんて素晴らしく柔らかい言葉だ、俺はこの言葉を手放さない
ために、何十年も、トボトボと生きてきたんじゃないか。
いつまでも泣きながら、歌舞伎座にじーっと座っていたのを、
昨日のことのように思い出す。
先代猿之介と梅原猛の、渾身のヤマトタケルに対して、
猿之介は空(くう)をもって、自身の所信を述べた。
脚本は前川知大という東洋大の哲学を出た方。
当然のように仏の実効性、仏性の意味にこだわっている。
わかりやすくいえば、病気をなおす、万人に平安をもたらす、
雨乞いをする、そういった現世利益を求めても結果がでない。
じゃあ、いったい仏を彫る意味(猿之介は仏師)、拝む意味は
どこにあるんだというきわめて分かり易い広き道から入っている。
それでも、従来型の歌舞伎ファンからみると、話が青臭く
みえたのか昼飯時に立ち上がると、ネボケ顔もチラホラ。
日経でさえ、やや観念的と書いているんだから、
話になりません。
じゃあ勧進帳をわかりやすい、日本古来の魂の凝縮だとでも
言うのでしょうか。
ワタクシに言わせたら、勧進帳のほうが遙かに観念的で
近代のなかで活かすべく努力を欠いている。
たとえば勧進帳で有名な部分に山伏問答というのがある。
なにやら難しい事を言い合っているように聞こえます。
しかしその内容は、つまらない、仏教の形式・所作を述べている
だけなのです。意味のないことに、過大な様式を纏わすことを
観念的というのでありまして、澤瀉屋は意味のあることを、
簡潔に述べ、楽しく色彩的に唄い、舞い、空を飛んでいるのです。
『空ヲ刻ム者』も、いずれ澤瀉屋を代表する演目になるでしょう。
ナナちゃんは猿之介の熱きファンだから、2回観ているのですが、
楽の前日、28日のほうがスッキリと仕上がってきたと言って
おりました。
日々、議論を重ねて漸進させているのでしょう。
カーテンコール(歌舞伎でね@@)での、猿之介の柔らかく
腰の低い挨拶ぶりは、勘三郎に似ており、彼がいま圧倒的に
支持されている理由が垣間見えます。

似たような話、第2弾。
このあいだ、新国立でオペラ「死の都」を観てきました。
オペラセット券年間3枚、鹿鳴館が本命だったのですが、
「死の都」なんて名前がいいので追加^^
これも『空ヲ刻ム者』とおなじ、日本ではほとんどハツモノ。
ドイツ語ですからチンプンカンプン。
まさに言語の壁が、観念的に迫ってくる@@
たまに横目で字幕を追うわけですが、言ってることは他愛も
ないことばかり。
対訳本も買いましたが、内容は中学生レベル。
ですから7割方は字幕などみなくても、アリアを楽しんで、
素晴らしい色彩を愛でて、ヴァイオリンの旋律を聴いて、
話の筋をクッキリ心内描写すれば充分。
この作品も、あまりメジャーなものではなかったので、
キョトンとしている方が多かった。
劇中でフェラチオをイメージさせる場面があったりして、
カルメンあたりで充分興奮する紳士淑女には理解できな
かったのかもしれない。
死んだ妻のことを忘れられない男が、現実と幻想のごった煮
のなかで生きている話。
しかし、最後のオチの場面が素晴らしく、透明感をもって
人間再生@@を歌い上げていくのです。
アタシにとっては素晴らしい作品だったので、生まれて
初めて「ブラボー」って叫びました。
きっといまに伝説の日本公演だったと言われるようになると
思うのですが、他人の意見に左右されるその他大勢には、
あまり理解されてなかったようです・・

似たような話、第3弾。
佐村河内 守という方が、なにやら事件を起こしました。
この方のやったことは、確かに悪いことかもしれませんが、
問題は、交響曲第一番のことであります。
ご存じの方も多いかと思いますが、NHKは佐村河内氏を
取材したNHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」
を2013年3月に放送しております。
アタシもこの番組をみていたく興味をそそられまして、
ネットでいろいろ調べると、「交響曲第一番」は
ベートーベンの第5番に匹敵するなんて書いている
方もいる@@
大震災の痛みが癒やされる?
アナタ、人間は誰もが、いつか死ぬんですぜ@@
まあ、こんな枕詞が出てくるってーことは胡散臭い作品
だとは思いましたが、とりあえずアマゾンに注文した。
フルオケだから爆音で聴かなければ意味がない。
那須にいくにはまだ寒かったので、Audiの中で、Boseの
スピーカーが壊れるほどの音量で、何日かききこんだ。
?、なんだこれ?
どこがベートーベンなの@@
最終章で、鐘の音を遠くで鳴らしてオシマイ。
あなたね、俺の耳は駄耳かと思って、その後、那須までCD持って
いって、JBLの4wayマルチがぶっ飛ぶような音量で、
聴きましたわ@@
ヒドイもんだ、CDはホコリをかぶってぶん投げてあります。
運命交響曲は密なるをもって、完璧に構築された作品です。
気が休まる部分など、どこにもない。
攻撃的で、叙情的で、扇情的ですらある。
佐村河内の第1番など詐欺的茶番だと、美空ヒバリ・天童よしみ
の違いがわかる方なら、だれでもわかる。
アタシは別にクラシックの素養もなければ楽器をやるわけじゃない。

本質を知覚するというのは、知識や弁舌とは別の次元なのです。
自身の優れて鍛えられた感性を信じ切るしかない。
それは、なにも、音楽や絵画、芸術一般だけじゃない。
あらゆる思想においてもいえます。
哲学というのは口(弁舌)を折ると書く。
物事の本質を見抜くためには、弁舌・既得の知識を捨て去り
哲学しなくてはいけない。
そして哲学もまた感性の一部に過ぎないということを、弁舌の
徒である哲学者は知らないといけない。
ヤマトタケルは、「饒舌な弁舌」のない哲学です。
そして、『空ヲ刻ム者』も、おそらく弁舌ではなく、知覚に
訴えた哲学だと思うのです。

ここに、面白い事実がある。

1996年4月24日、オウム真理教(現・アレフ)麻原彰晃こと
松本千津夫被告の初公判に際し、朝日新聞社宛に連合赤軍の
殺人犯・坂口から手紙が届いた。
朝日新聞では4月24日の夕刊で、彼の手紙を「手記」として
紹介している。

「この手紙が、あなた<オウム信者のこと>を始めとする
潜伏中の皆さんの目に触れることを念じつつ書いています。
かつて、重大な過ちを犯した人間である私は、地下鉄
サリン事件など一連の事件に関与したオウム真理教信者の
方々に対し、痛ましい思いで深い同情を禁じえません。
あなた方は、サリンをまくためにオウム真理教に入信された
わけではないでしょう。
また、地下鉄サリン事件を立案し、計画したわけでもない
ようです。
教団の中にあって、たまたまその地位や立場が悪かったために
指名手配され、実行に関与することになったのです。
私自身の経験から、組織の中にいて、そのような指示を
容易に拒めるものではないことはよくわかります。
僧侶の林さん<泰男容疑者のことか>と左翼の私とは、
住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いに
よく似た傾向があることに気づかされます。
それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての
私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に
指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでも
おしくないとまで思っていました。
この盲目性から私は、組織が始めた武装闘争に加わり、
獄中にいた指導者の奪還を企てたのですが、これが
武器のエスカレートを招き、その過程に脱落した仲間を
口封じのために殺害し、さらに、目的を変じて、山岳ベース
での大勢の同志殺害からあさま山荘でのろう城発砲へと、
命がいくつあっても足りぬ罪を重ねてしまいました。
過ちに気づいたのは逮捕されてからでした。国内外の
激動した情勢に、どうも自分たちの武装路線は適合して
いないのではないか、という疑問が芽生え、この疑問を
つきつめてゆく過程において、なおも路線を堅持する
指導者と衝突しました。そして、激しい論戦を経て、
ようやく武装路線から脱却できたのです。
この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた
時には、何にもまして実感を大切にしなければならない、
と心するようにしました。
自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、
しつこいように追求してゆく、ということです。
教団の中で、求道のため、麻原さんの指示を率先して
実行した井上嘉浩さんも、今私と似たような体験をされて
いるようです。
彼は、麻原さんの指示を実行していても自分の心は解放されず、
かえって暗くなってゆくのはなぜか、という疑問にこだわった
そうです。
逮捕後、これをつきつめていった結果、一連の事件は麻原さんの
エゴの実践に過ぎなかったとの結論に達し、法廷で麻原さんと
対決してゆく意志を表明されました。
手段が悪いのは目的が悪いからだ、という言葉があります。
実感を大切にされ、ご自分の判断で運命をひらいて下さい。」

科学的社会主義といわれる思想を、どの程度坂口という男が
咀嚼したのか、アタシは知らないが、共産主義者が宗教家に
「この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた時には、
何にもまして実感を大切にしなければならない、と心するよう
にしました。
自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、
しつこいように追求してゆく、ということです。」と
言っている。

多くの人間を惨殺した後、坂口ははじめて思想と知覚の問題に
覚醒した。
このことをあまりに喜劇的な悲劇と断じるのはたやすいが、
多くの思想家・知識人が「口を折る」ことの大切さに気が
ついていないような気がしてならない。

俺が相場を愛するのは、チャートや投資の結果には、言葉の
介在する余地など一切ないからだ。
そこにあるのは、指数と実態としての資産残高。
数字は、結果だけを提示する。
我々はなにもわかっていないということを、今日も、
リアルタイムチャートは示し続ける。
今年になって株は松竹以外、ほとんど売りきった。
新興市場は10倍銘柄続出のあと、調整局面。
去年買った「夜の帝王物件」やっと満室になって不動産投資も一段落。
しばらくは、心の置き場を奈辺にしようか、まどろむ日々だ。

by sniperfon | 2014-03-31 20:37  

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