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月光とピエロ、あるいはバッハのミサ曲

「月 夜」

月の光の照る辻(つじ)に
ピエロ さびしく立ちにけり

ピエロの姿(すがた)白ければ
月の光に濡れにけり

あたりしみじみ見まわせど
コロンビイヌの影もなし

あまりに事のかなしさに
ピエロは涙ながしけり

「秋のピエロ」

泣き笑いしてわがピエロ
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり

O(オー)の形の口をして
Oの形の口をして
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり

月のようなる白粉(おしろい)の
顔が涙を流すなり

身すぎ世すぎの是非もなく
おどけたれどもわがピエロ

秋はしみじみ身に滲(し)みて
真実なみだを流すなり

 「ピエロ」

 ピエロの白さ!
 身のつらさ!

 ピエロの顔は
 真白(まっしろ)け!

 白くあかるく
 見ゆれども

 ピエロの顔は
 さびしかり!

 ピエロは
 月の光なり!

 白くあかるく
 見ゆれども

 月の光は
 さびしかり!

「ピエロの嘆き」

かなしからずや身はピエロ
月の孀(やもめ)の父無児(ててなしご)!
月は み空に身はここに
身すぎ世すぎの泣笑い!

「月光とピエロとピエレットの唐草模様」

  月の光に照らされて
   ピエロ 、ピエレット
   踊りけり
   ピエロ 、ピエレット

  月の光に照らされて
   ピエロ 、ピエレット
   踊りけり
   ピエロ 、ピエレット

   踊りけり
   ピエロ 、ピエレット
   踊りけり
   ピエロ 、ピエレット

   踊りけり
   歌いけり
   ピエロ 、ピエレット
   ピエロ 、ピエレット

月の光に照らされて
   ピエロ 、ピエレット
   ピエロ 、ピエレット
 月の光に照らされて


クラシック500枚もほぼチェックを終えて、また、500枚くらい落札しようと思っている。
堀口大學といいますと、明治.大正の詩人というイメージが強く、中也あたりと15歳くらいしか違わないのに、俺のなかではやや距離がある。
ボードレール、ランボー、ジャン・ジュネあたりも訳しているのですが、むかし本屋の店頭で読んだ限りでは、文語調が災いして触手を伸ばすにはいたらなかった。
軽妙なイメージから、詩壇からは遠ざけられていたのかもしれないが、陛下の前で歌を詠んだあたりは、人生達人としてまっとうしたと言うべきか。

大學の処女詩集『月光とピエロ』のなかの詩に、清水脩という方が曲をつけている。
合唱をするかたの間ではバイブルみたいもので、連綿と歌い継がれているらしい。
そのレコードを聴いたわけだが、いや、まことに素晴らしい。

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言葉というのは不思議なもので、音・音声にのると、別の言霊に昇華して、龍が天空を征くがごとく、我々の脳天をぶっこわすときがある。
詩人が朗読をするのが流行っているが、あれは、彼ら自身が言葉と音声の奇妙な纏われ感を深く自覚しているからにほかならない。
目をつぶっていると、詩を聞いているのではなく、妖しげな声色を聴いて酔っている自分に気づくことがある。坊主の読経。
このレコードは大學の詩と男声合唱の重なり合う厚みがちょうどバランスよく、同時に聴いたバッハのミサ曲ロ短調より、数段、素晴らしいものだった。
言葉の障害じゃないかとも思ったが、フォーレやモーツアルトのレクイエムは感動するし、第9のシラーなんてつまらないことを書いているが、やはりあの合唱は聴ける。
だから、バッハのミサ曲よりも清水脩の『月光とピエロ』のほうが、だんぜんいいと、俺は断言する。

で、志鳥さんの「私のレコードライブラリー」をみると、バッハのミサ曲ロ短調は、一生の間に一度でもいいから聴きなさいと書いてある@@
「月光とピエロ」のほうは、どこにものってない・・

俺の気性からいったら、志鳥ってヤローは単なる権威主義者じゃねーか、と書くと、皆様は思っているかもしれない。
たしかに、俺も、ふと、思った。
月光とピエロは、俺の音楽館のなかでは、かなりの高位置にくる。

評論家というのは、最後は知識の切り売りが勝負となる場合が多い。
本来は自分の感性に照らして、新たなる意匠となるべき斬新な言葉を用意すべきなのだが、才能が枯渇して言葉が出てこない、、そーなるとメシが喰えないから、知識・データをいろいろ並べて、お茶を濁すしかない。
レコードのライナーというのはスペースが広いから、埋めるのがたいへん。。
ばほほほ、だから、曲の紹介のまえに、ベートーベンの生まれだの、モーツアルトの生活だの、俺でも知ってることを延々と書く。
そして、おもむろに、第1楽章はソナタ形式でとか、和音はどうだとか、ノーガキを書く。
お前はいったい、悲愴のどこに感動したの?と読んでいると、ロシアの永遠に消えていった、永遠の謎である?????
いや、いつだったか、NHKの番組でも、悲愴は謎であるなんて、解説者が言っていた。
だぼぼぼぼ、悲愴なんて謎でもなんでもない。
あれは、チャイコフスキーが、第3楽章までで、いわゆる人生の毀誉褒貶を描ききった。
しかしながら、チャイコフスキーと数少ない天才(俺のこと)たちは、その先に横たわる、まさに深淵たる人生のあおざめた断層を観じる、その観じた形相をえぐりとるように描いたものなのだ。

だから観じる能力のないものには、悲愴など、じつはどうでもいい曲(なにも解ってないんだから)しかし、あなた、音楽評論家が、悲愴の解説を出来なかったら、メシが喰えない^^
だから、ナゾなんて言葉で逃げているのよ。
まいど書くように、美空ひばりや、淡谷のりこの曲を聴くときに、和音がどうだとか、旋律があーだとか、考えます?
クラシック、すなわち古典に思想をまとわせ、それでメシを喰ってる連中に騙されてはいけません。
観じる心がない人間は、なにもみえないのです。

これは、べつに音楽だけのハナシじゃない。
いま富山県立近代美術館で「日本画の巨匠三山展」というのをやっている。

東山魁夷、杉山寧、高山辰雄の山をとって、三山としたわけだ。
この三人が巨匠かどうかは意見が分かれるが、俺は杉山寧が好きだから観にいった。
高山辰雄という人はあまり知らなかったんだが、聖家族シリーズあたりは有名。
で、高山の作品、最後に「自寫像」というのがある。
いわゆる自画像。

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この絵は、薄い墨のような仕上げ、高山本人が杖をついて立っている。
お気づきのように顔が書いてない、右上に彼が好きだった月のような天球が描かれている。
全体は不透明なモヤのような空気に包まれ、索漠感と不安感がみなぎる。

絵は解釈だから、この絵をみて何を観じようが自由。
まあ、あなたも、俺も、大差ないだろう。
あとは、こーゆう絵が好きかどうか、それだけだ。
俺は、まあ、好きなほうだが、それよりも、なぜ顔を描かなかったのか。
聖家族あたりも、同じように暗いモノトーンなのだが、目は必ず描かれていた。
だから、高山が、相当の思いでこの絵にかけて、その思いはまさに顔を描かなかった点に凝縮されている、それは容易に想像がつく。
なぜ、自我を描くのに、あえて、顔を消したか。

おれは、解明欲から絵を遡及していくのは好きじゃないんだが、家族を大切にして功成り名を遂げたオトコが、なぜ、最晩年にこーゆう絵を描いたのか。
このことが、不思議でならなかった。

そして、絵をみたあと、ショップをブラブラしてたら、一冊の本が置いてあった。
高山由紀子著「父 高山辰雄」
で、この本を買って読んでいたんだが、芸術家を父にもった娘のファザコン書き物。
面白いのは親子なのに、オヤジの絵を意外と理解してないってことね。
絵を観るというのは、まさに、絵そのものをみることなのであって、どっかの山に登ったり、画商との交友を書いたり、情緒的な体験を語る事じゃない。
よーするに悲愴の理解で書いたように、この娘は、オヤジの絵を観じる魂に欠けている。
そして、この欠けた娘とオヤジの心の亀裂が、じつは、「自寫像」のナゾに繋がっていたと俺は思ったのだ。

俺は別に高山由紀子を揶揄しているのでも、小馬鹿にしているのでもない。
絵を観じる能力がないと言ってるだけで、その他のことを否定しているんじゃない。
画家の子が、画家を理解できるとは限らないという、当たり前のことを言ってるだけだ。

この本の終わり近くで、彼女は、芸術家高山辰雄との葛藤を告白している。
意見を求められ表明するまでの消耗感、30代、いや40代になって、やっとオヤジから自立できたこと。
家族間のゴタゴタした時期は、ちょうど聖家族の創作期、くすんだ黒の制作期にあたる。
父、母、子は他人のように無表情に、ただ、決められた位置にたたずむ。
どの目もぼやけて真実を正視しようとしていない、あるいは、オンナはキツネのような奇妙にゆがんだ目つきをしている。
「穹(きゅう)」を描いた時の、透明な高踏感はどこにもない。
この寂しき「自寫像」を、高山は死の直前、90歳半ばで描いた。

家族、家庭の喪失という、結論として書きたくもない陳腐、陳腐であるがゆえに、芸術家もまた逃れられなかったということ。
あるいは喪失ではなく、家族のもつ離反という普遍性、だから、高山は淡々と顔を消し去って逝ってしまった。

まあ、こんな話を、高山由紀子は認めたくもないだろう。
永遠とか夢幻のなかで一見生きていたであろう父親を、俺みたいオトコにいいように書かれたら、まあ、おもしろくはないわな。
しかし、あなたね、人間なんていうのは、ささいなことから世界を凍死させたいと願うものなんですよ。
ましては芸術家なんていうのは、敏感な、神経症の塊みたい動物ですよ。
本音など墓場にもっていく覚悟で、人生を色づけているんです。
だから高山が、家族に絶望か失望かはしらないが、少なくとも魂を傷つけられたという俺の邪推は、けっこう当たっているとおもう。
そして、そんなことにかかわらず、俺がこの絵を評価するというのは、やはり高山自身の水準が俺と同レベルなほどの高みにあったということなのであって、「自寫像」は永遠に残るだろう。
俺が芸術を観じるというのは、まったく、他愛のない、地味な所作の結果なのだが、けっして、一点の真実を見逃さないという自負でもあるのだ。

さて、相場を観じてみよう。
為替はスイスフラン強制介入から、円安にふれて77円台半ばでヘッジの約定が出来た方も多いだろう。
まあ、80~81が、とんでもない壁になっているから、ゆっくりいくことです。
NY指数は、ガタガタやってますが、日本の二の舞ということになれば底値はまだわからない。
ヘッジファンドがやられていると報道されてましたから、破産ショックがくる可能性もある。
チャートは崩れていないから現状で3割程度のヘッジ、1200Pまでの売り上がりがうまくいくかどうか、ってとこです。
クラッシュでリートを買う資金と度胸を持ち合わせているかどうか。
海外のヘッジファンドなんていうのは、強気一辺倒のバカばかりですから、アパッチだけ読んで、逝ったほうが、成仏できるでしょう。
じゃあ、また・
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by sniperfon | 2011-09-07 11:07