乾いたひとたち

「バルテュス」という画家のことを教えてくれたのは、
「ふぉんふぉん」という熱い女性でありました。
誠実なひとで、僕を裏切ることがなかった。
いま東京都美術館で、「バルテュス展」をやっています。
このあいだいってきました。
いろいろと評価のわかれる強めの作品が多いのですが、
気に入ったのは

「読書するカティア」
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柔らかい筆致と、水墨画のような空気を混ぜ込んだ透明感。
足先が厚めの絨毯にかすかに沈みこみ温かい。
顔の描写が構図としては明らかにおかしいのですが、
その奇妙な目線が不思議な雰囲気を醸し出しています。
画集でみても、それほど惹かれる作品ではなかったん
ですけどね。
モデルは白人ですが、このカラダは明らかに東洋的でありまして、
まるで節子夫人の肉体を連想させるようではありませんか@@
1968年といいますと20代の節子と知り合った頃でしょうから
心のやすらぎを得て、静謐な東洋美を紡ぎ出したのでしょうか。

ピカソがなぜ「バルテュス」を激賞したか、アタシにはいままで
不明だったのですが、この光と色彩にあったのだと、いまは
得心しました。
画集と原画のあいだには遙かな距離がある。
まさに「バルテュス」の絵はその通りでした。
「ふっくら」とした温かさと「くすんだ」重層的な厚み。
ほんとうに微細な光の採掘と照射。
スーラの点描のようですが、もっと荒々しいタッチのために
くすんだ柔らかさが絶妙にでています。
カーペットの色が緋色(ひいろ)・鉛丹色と巧妙に配色され、
シャガールの緑のようですが、シャガールのように薄い油ではなく、
深みを伴っている。
もちろんバルテュスの緑が絶品なのは、みなさまご承知の通り。
初期の作品には筋肉質的な肉体をもった少女、そして、必ず
こちらの現実に背をむけた人がいる。
その人々は乾いた異邦人のようであり、さりとて虚無的じゃない。
アタシは、そんな人々が気に入って、「バルテュス」の絵世界に
入っていったのだが、彼の絵は節子を知った頃より変化していく。
それじゃ、乾いた人たちは立ち去ったかといえば、やはり
「バルテュス」の心は、いつまでも、一切に迎合することなく、
乾燥した自然のなかで異方向に生きていたといわねばならない。
あの有名な鏡・ネコ・少女シリーズを晩年に描いたということに、
アタシはただただ、驚くのです。

会場の出口に、いろいろ写真が飾られています。
すぐれて芸術的であるといえるのは、「グラン・シャレ」の山莊に
たたずむ画家と、

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感動的な、節子とのショット
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篠山紀信は、この作品だけで永遠を手に入れた。

われわれは、バルテュスの「絵画から人物像に至る」、騎士道的な骨
そのものに感動しているようです。

さて、愛とはなにか。
バルテュスの葬儀のときに、節子が墓の上に泣き崩れていました。
あの写真を、アタシは生涯忘れることができない。
節子がモデルとなったこの絵。
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会場にはもう一枚、浮世絵と右に描かれた、もっと濃厚な絵も飾られていました。
女の愛、というものの凄さが、この絵からしずかに滴ってくるのを、
あなたも感じますか?
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# by sniperfon | 2014-06-10 20:33 | Comments(2)  

春と空(くう)

いつのまにか桜が、人間世界を惑わすかのように咲き始めました。
4/1エイプリルフールのころに満開になるとは、なんとも、
奇怪な話ではありませんか。
すべては嘘、すべては空、桜はそう告げるために、青葉のない幹に
突然、花だけつけるのだと、アタシはときどき思います。
桜吹雪が去ったあと、今年も人間は、隠された自分を仏の鏡面にだけ
照らしだし、仮面をかぶって街路にでていく。

「あなたがすることのほとんどは無意味
であるが、それでもしなくてはならない。
そうしたことをするのは、世界を変える
ためではなく、世界によって自分が変えられ
ないようにするためである」 (ガンジー)

この恐ろしい思想はガンジーという仮面を被ることで、
思想はまるで個を離れて永遠性を獲得した。
このようなことが、すべての世界を覆っていると感じたころより、
アタシは、感性の世界だけを愛撫するようになり、
それは、それほど虚無なことではないと確信した。

猿之介の『空ヲ刻ム者 ―若き仏師の物語―』を観てきた。

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若き澤瀉屋の頭領が、いま、何をやりたいのか。
自分は、伝統芸能という重箱のなかで、どう飛翔して
いきたいのか。
明確に伝わってくる。
先代猿之介のヤマトタケルは大きな「気」のスケールを
語っていた。
それは
『何か途方もない大きなものを追い求めて、私の心はたえず
天高く天翔けていた。天翔ける心、それがこの私だ』
にこめられている。
俺はこのセリフを聞いたとき、歌舞伎座でボロボロ泣いた。
なんて素晴らしく柔らかい言葉だ、俺はこの言葉を手放さない
ために、何十年も、トボトボと生きてきたんじゃないか。
いつまでも泣きながら、歌舞伎座にじーっと座っていたのを、
昨日のことのように思い出す。
先代猿之介と梅原猛の、渾身のヤマトタケルに対して、
猿之介は空(くう)をもって、自身の所信を述べた。
脚本は前川知大という東洋大の哲学を出た方。
当然のように仏の実効性、仏性の意味にこだわっている。
わかりやすくいえば、病気をなおす、万人に平安をもたらす、
雨乞いをする、そういった現世利益を求めても結果がでない。
じゃあ、いったい仏を彫る意味(猿之介は仏師)、拝む意味は
どこにあるんだというきわめて分かり易い広き道から入っている。
それでも、従来型の歌舞伎ファンからみると、話が青臭く
みえたのか昼飯時に立ち上がると、ネボケ顔もチラホラ。
日経でさえ、やや観念的と書いているんだから、
話になりません。
じゃあ勧進帳をわかりやすい、日本古来の魂の凝縮だとでも
言うのでしょうか。
ワタクシに言わせたら、勧進帳のほうが遙かに観念的で
近代のなかで活かすべく努力を欠いている。
たとえば勧進帳で有名な部分に山伏問答というのがある。
なにやら難しい事を言い合っているように聞こえます。
しかしその内容は、つまらない、仏教の形式・所作を述べている
だけなのです。意味のないことに、過大な様式を纏わすことを
観念的というのでありまして、澤瀉屋は意味のあることを、
簡潔に述べ、楽しく色彩的に唄い、舞い、空を飛んでいるのです。
『空ヲ刻ム者』も、いずれ澤瀉屋を代表する演目になるでしょう。
ナナちゃんは猿之介の熱きファンだから、2回観ているのですが、
楽の前日、28日のほうがスッキリと仕上がってきたと言って
おりました。
日々、議論を重ねて漸進させているのでしょう。
カーテンコール(歌舞伎でね@@)での、猿之介の柔らかく
腰の低い挨拶ぶりは、勘三郎に似ており、彼がいま圧倒的に
支持されている理由が垣間見えます。

似たような話、第2弾。
このあいだ、新国立でオペラ「死の都」を観てきました。
オペラセット券年間3枚、鹿鳴館が本命だったのですが、
「死の都」なんて名前がいいので追加^^
これも『空ヲ刻ム者』とおなじ、日本ではほとんどハツモノ。
ドイツ語ですからチンプンカンプン。
まさに言語の壁が、観念的に迫ってくる@@
たまに横目で字幕を追うわけですが、言ってることは他愛も
ないことばかり。
対訳本も買いましたが、内容は中学生レベル。
ですから7割方は字幕などみなくても、アリアを楽しんで、
素晴らしい色彩を愛でて、ヴァイオリンの旋律を聴いて、
話の筋をクッキリ心内描写すれば充分。
この作品も、あまりメジャーなものではなかったので、
キョトンとしている方が多かった。
劇中でフェラチオをイメージさせる場面があったりして、
カルメンあたりで充分興奮する紳士淑女には理解できな
かったのかもしれない。
死んだ妻のことを忘れられない男が、現実と幻想のごった煮
のなかで生きている話。
しかし、最後のオチの場面が素晴らしく、透明感をもって
人間再生@@を歌い上げていくのです。
アタシにとっては素晴らしい作品だったので、生まれて
初めて「ブラボー」って叫びました。
きっといまに伝説の日本公演だったと言われるようになると
思うのですが、他人の意見に左右されるその他大勢には、
あまり理解されてなかったようです・・

似たような話、第3弾。
佐村河内 守という方が、なにやら事件を起こしました。
この方のやったことは、確かに悪いことかもしれませんが、
問題は、交響曲第一番のことであります。
ご存じの方も多いかと思いますが、NHKは佐村河内氏を
取材したNHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」
を2013年3月に放送しております。
アタシもこの番組をみていたく興味をそそられまして、
ネットでいろいろ調べると、「交響曲第一番」は
ベートーベンの第5番に匹敵するなんて書いている
方もいる@@
大震災の痛みが癒やされる?
アナタ、人間は誰もが、いつか死ぬんですぜ@@
まあ、こんな枕詞が出てくるってーことは胡散臭い作品
だとは思いましたが、とりあえずアマゾンに注文した。
フルオケだから爆音で聴かなければ意味がない。
那須にいくにはまだ寒かったので、Audiの中で、Boseの
スピーカーが壊れるほどの音量で、何日かききこんだ。
?、なんだこれ?
どこがベートーベンなの@@
最終章で、鐘の音を遠くで鳴らしてオシマイ。
あなたね、俺の耳は駄耳かと思って、その後、那須までCD持って
いって、JBLの4wayマルチがぶっ飛ぶような音量で、
聴きましたわ@@
ヒドイもんだ、CDはホコリをかぶってぶん投げてあります。
運命交響曲は密なるをもって、完璧に構築された作品です。
気が休まる部分など、どこにもない。
攻撃的で、叙情的で、扇情的ですらある。
佐村河内の第1番など詐欺的茶番だと、美空ヒバリ・天童よしみ
の違いがわかる方なら、だれでもわかる。
アタシは別にクラシックの素養もなければ楽器をやるわけじゃない。

本質を知覚するというのは、知識や弁舌とは別の次元なのです。
自身の優れて鍛えられた感性を信じ切るしかない。
それは、なにも、音楽や絵画、芸術一般だけじゃない。
あらゆる思想においてもいえます。
哲学というのは口(弁舌)を折ると書く。
物事の本質を見抜くためには、弁舌・既得の知識を捨て去り
哲学しなくてはいけない。
そして哲学もまた感性の一部に過ぎないということを、弁舌の
徒である哲学者は知らないといけない。
ヤマトタケルは、「饒舌な弁舌」のない哲学です。
そして、『空ヲ刻ム者』も、おそらく弁舌ではなく、知覚に
訴えた哲学だと思うのです。

ここに、面白い事実がある。

1996年4月24日、オウム真理教(現・アレフ)麻原彰晃こと
松本千津夫被告の初公判に際し、朝日新聞社宛に連合赤軍の
殺人犯・坂口から手紙が届いた。
朝日新聞では4月24日の夕刊で、彼の手紙を「手記」として
紹介している。

「この手紙が、あなた<オウム信者のこと>を始めとする
潜伏中の皆さんの目に触れることを念じつつ書いています。
かつて、重大な過ちを犯した人間である私は、地下鉄
サリン事件など一連の事件に関与したオウム真理教信者の
方々に対し、痛ましい思いで深い同情を禁じえません。
あなた方は、サリンをまくためにオウム真理教に入信された
わけではないでしょう。
また、地下鉄サリン事件を立案し、計画したわけでもない
ようです。
教団の中にあって、たまたまその地位や立場が悪かったために
指名手配され、実行に関与することになったのです。
私自身の経験から、組織の中にいて、そのような指示を
容易に拒めるものではないことはよくわかります。
僧侶の林さん<泰男容疑者のことか>と左翼の私とは、
住む世界が異なりますが、それにもかかわらずお互いに
よく似た傾向があることに気づかされます。
それは、カリスマ性をもつ指導者への帰依です。かつての
私は、この傾向が人一倍強い人間で、恋も及ばぬほど熱烈に
指導者を愛し、忠誠を誓い、この人のためなら死んでも
おしくないとまで思っていました。
この盲目性から私は、組織が始めた武装闘争に加わり、
獄中にいた指導者の奪還を企てたのですが、これが
武器のエスカレートを招き、その過程に脱落した仲間を
口封じのために殺害し、さらに、目的を変じて、山岳ベース
での大勢の同志殺害からあさま山荘でのろう城発砲へと、
命がいくつあっても足りぬ罪を重ねてしまいました。
過ちに気づいたのは逮捕されてからでした。国内外の
激動した情勢に、どうも自分たちの武装路線は適合して
いないのではないか、という疑問が芽生え、この疑問を
つきつめてゆく過程において、なおも路線を堅持する
指導者と衝突しました。そして、激しい論戦を経て、
ようやく武装路線から脱却できたのです。
この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた
時には、何にもまして実感を大切にしなければならない、
と心するようにしました。
自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、
しつこいように追求してゆく、ということです。
教団の中で、求道のため、麻原さんの指示を率先して
実行した井上嘉浩さんも、今私と似たような体験をされて
いるようです。
彼は、麻原さんの指示を実行していても自分の心は解放されず、
かえって暗くなってゆくのはなぜか、という疑問にこだわった
そうです。
逮捕後、これをつきつめていった結果、一連の事件は麻原さんの
エゴの実践に過ぎなかったとの結論に達し、法廷で麻原さんと
対決してゆく意志を表明されました。
手段が悪いのは目的が悪いからだ、という言葉があります。
実感を大切にされ、ご自分の判断で運命をひらいて下さい。」

科学的社会主義といわれる思想を、どの程度坂口という男が
咀嚼したのか、アタシは知らないが、共産主義者が宗教家に
「この体験から私は、自らの行為に疑問や迷いが生じた時には、
何にもまして実感を大切にしなければならない、と心するよう
にしました。
自分の心に感じたものにこだわり、それがスッキリするまで、
しつこいように追求してゆく、ということです。」と
言っている。

多くの人間を惨殺した後、坂口ははじめて思想と知覚の問題に
覚醒した。
このことをあまりに喜劇的な悲劇と断じるのはたやすいが、
多くの思想家・知識人が「口を折る」ことの大切さに気が
ついていないような気がしてならない。

俺が相場を愛するのは、チャートや投資の結果には、言葉の
介在する余地など一切ないからだ。
そこにあるのは、指数と実態としての資産残高。
数字は、結果だけを提示する。
我々はなにもわかっていないということを、今日も、
リアルタイムチャートは示し続ける。
今年になって株は松竹以外、ほとんど売りきった。
新興市場は10倍銘柄続出のあと、調整局面。
去年買った「夜の帝王物件」やっと満室になって不動産投資も一段落。
しばらくは、心の置き場を奈辺にしようか、まどろむ日々だ。
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# by sniperfon | 2014-03-31 20:37 | Comments(0)  

さらば

厳島神社に行ってきた。
わざわざ広島、もったいないから、初日は尾道まで出向いて
文学の散歩道。
尾道といえばネコだが、あの急斜面の下水設備はどうなって
いるのか?
調べたらやはり、江戸時代とたいして変わってなかった@@
なんの因縁か千光寺で千手観音の御開帳をやっていた。
33年ぶりだから、ご縁があったのだろう。
我が家は日蓮宗だが、どーも法華はあまり好きじゃない。
久遠寺の佇まい、日蓮の言葉というものが、なぜかしら
深みのない造作に概観されるからだ。
だから我が家の仏壇には、富山の叔父からいただいた観音像
が座している。
俺はこの観音様を愛しているんだ。
千光寺の千手観音はいい顔をしていた。

翌日、厳島神社を拝観したあと、弥山に登った。
弘法大師ゆかりだから、厳島神社よりも興味があった。
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こーゆう、やわらかいお地蔵さんが、あちこちに生きている。
大昔、神道と仏教の境界がおおらかだったころ、清盛の
小さな世界観と密教は共存していたというわけだ。
しかし、弥山の頂上から静かな瀬戸内海を遠望していると、
おい、いったい、神や仏は、なにをわれわれに伝播したと
いうのだろう。

観音経(偈文)

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音
具足妙曹尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善応諸方所

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願
我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦
假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池
或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没
或在須弥峯 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊
或囚禁枷鎖 手足被柱械 念彼観音力 釈然得解脱   
呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人
或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害
若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方
玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去
雲雷鼓掣電 降雹濡大雨 念彼観音力 応時得消散   
衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦   
具足神通力 廣修智方便 十方諸国土 無刹不現身   
種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅   
真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 浄願常譫仰
無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間   
悲體戒雷震 慈意妙大雲 濡甘露法雨 滅除煩悩焔   
諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散   
妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念   
念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故応頂礼
爾時持地菩薩 即従座起 前白佛言 世尊 若有衆生  
聞是観世音菩薩品 自在之業 普門示現 神通力者
当知是人 功徳不少佛説是普門品時衆中 八萬四千衆生
皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心
 
般若心経

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。
色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。
不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。
無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。
無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。
亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。
心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。
遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。
是大明咒是無上咒。是無等等咒。
能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 
般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

まあ、観音経と般若心経あたりを写経して幸せになれる
なら、なんともお手軽な人生だ。
ネットで検索すれば、諸君でも簡単に意訳はとれる。
漢字だからなんとなくもっともらしいが、言ってることは
他愛もない当たり前のことばかり。
俺にとっては当たり前でも、当たり前でない人間がいる。
それが、この世の、面白いところだ。
仏の宣伝に終始しているのが経文の常だから、どーも
押しつけがましくてまいる。。
この世のことは相対的価値で動いているのだが、人間、
困難に出会うと絶対的価値を求めたがる。
相対的価値で儲けている権化・弁護士がお遍路したり、
有名な左翼の民法学者が死に際して洗礼を受けたりする。
俺は、そーゆう人生もありだと思うが、失礼ながら、
そーゆう人生はなにか俺の心根には響かない。
それだけじゃない、「なにか」が、やはり、俺のなかには
在るからだ。
俺が我が家の観音様にアタマを垂れるのは、言葉ではなく、
俺の実在の源を
感知していることへの畏怖なのだ。
この相互覚知された関係のなかにしか、絶対などという
言葉はそもそも存しないと思っていたのだが、しかし、
ここでいう実在というのは肉体と欲望、まあ煩悩の
結晶像のようなもので、じつは俺の魂のありかは、
ちょっと離れたところで、正邪の境をうろうろしている
のではないかと思えるのだ。
観音をもって一切衆生救済と簡単にいかないところに、
人間の摩訶不思議が
ある。

で、ですね。
沖縄に嫁いだ娘が結婚式のあと、かりゆし58のCDを
贈ってくれた。
前川真悟ってヤクザ崩れの男がほとんどの曲を作って
いるんだが、なかなかいい。
いちどきちんと聴くかと思って、ipodに入れて、車の中で
ジックリ聴いていたんだ。

********************
「流星」

本当はこのまま ずっとこのままで
時間が止まってしまえばいいのに
そしたら僕らは もう何も壊さずに
もう何一つ汚さずにいれるのに

手にしたものより もっと失ったものが
絶望する程たくさんあるよな
マリア この街じゃあ例え誰かが死んでも
ほんの少し電車が遅れるだけ

今ちょうど故郷の空に手紙を書いているところさ
「初恋のあの人が知らない誰かと結ばれるけれど
どうかお願い 式の当日には雨を降らせないでほしい」

いつかはそれぞれ 別々の命
旅立って行く「さらば さらば」って言いながら
僕ら喜びを唄に変えるのは あまりに哀し過ぎる誰かのためさ
この世界に 一粒の種を

言葉は轍さ その生き抜いた日々の
「生まれてきたのは間違いじゃない」と言ってよ
「誰かが遺したその最後の言葉が
誰かの未来を変える」と言ってよ

「まだこの街のことを好きでも嫌いでもないけど
冬の日の夜空から舞い降りてくる白い雪は
息を呑む程に 綺麗で儚くて
いつの日かあの島の上にも 降らせてほしい」

誰もがそれぞれ別々の命
旅立って行く「さらば さらば」って言いながら
僕ら喜びを唄に変えるのは 届くことのなかった祈りのためさ
この世界に 一粒の種を

本当はこのまま ずっとこのままで
アナタの隣に居たいけど
思い出は今日もまたひとつ歳をとる
さらば またいつか
もう行くよ
***********************

これはよかった、まるで曼荼羅だ。
こんな歌詞を、暖かく、からっと歌ったバンドが、いままで
日本にあったかい?
厭世的でなく感傷もない、だけど、大切なことを生真面目に
詩で歌っている。
キヨシローもそうだったな。
俺は、かりゆし58のHPにいって、前川にメールをだした。
「いい曲だ、いつか必ずライブをみにいく。
ただ、アコースティックギターでやって欲しい」

恋人よ、アンマー、電照菊、オワリはじまり、、、
どの曲も、地に足がついた真面目な言葉、のんびりと安定した
音色に包まれている。
人生・恋・生死をこんな風に聴かせたシンガーソングライターは、
日本にはいなかったでしょう。
恋人よ、を、一度聴いてごらんなさい。
皆様は、このような2人でありつづけ、得ましたか?
小さな幸せを誠実に凡庸に語ることの格好良さ。
かりゆし58を聴いたあと、iPodから流れてくるのは
ベートーベンのピアノソナタ30番以降なんだが、それが、
ぴったりと繋がっていく。
そして、ツエッペリンへも。


裕次郎さんが死んだんだ。
独り身の始末も出来ぬまま、肝臓癌特有のボケが始まって、
すぐに逝ってしまった。
蓋棺録、人は死をもって定まる、か?
身寄りがなかった人だから、遠縁の人間に葬儀を頼んで、
身近な人間にもよろしくと声をかけていた。
船頭ばかり多くて、だれも金などもっていないし、
出す気もない。
俺はボケたときに会いに行って、お通夜も葬儀も知らん
ふりだからいいが、元カノのママが修羅場をみて、
仕切ってきたらしい。
どっかのボケおやじが出てきて、100万くらいの戒名を
付けたらどうだと言ったらしい。
ママが、あなた、口だけじゃなくて金も出したら?って
言ったとか@@

俺は裕次郎さんの死がレベル3程度にみえて、ギザギザの
違和感のなかにいた。
じゃあ、いったい、レベル5の死ってなんなんだよ!
たしかに、そうだ。
五木寛之のように白髪をたなびかせて親鸞を語って、
死を恐れないと言うことか。
デカイ、チンケなリムジンに乗せられて、ラッパを
吹かれることか。
大津波で、大自然の意のままに皆殺しにされることか。
東京の安アパートで腐乱死体で発見されて、孤独死と
同情されることか。
天皇陛下のように、武蔵陵墓地に埋葬されることか。
そうじゃないだろ。
すべてが相対のなかに在るとしたなら、そもそも、
レベルという概念など、まったく陳腐なお話にすぎない。
しょせん万人の死、されど死。
かりゆし58の「流星」は、そんな、あたりまえのことを、
俺にやさしく語ってくれたんだ。

裕次郎さんも最後に「さらば」とつぶやいて、流星の
ように消えていったとしたら、いや、そのように消えて
いったと、かりゆし58の唄を聴いて思えたから、
俺は久しぶりに、このBlogを開いたんだ。
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# by sniperfon | 2013-11-16 18:50  

ホテルローヤルと、お食事

石原慎太郎ならずとも、芥川賞に値する作品というのが最近は見あたらないと
俺も思っていた。
アタイするという意味は、別に芥川や有名どころの作品に比して負けないレベルという
ことでなはく、地球のヘソ的な独自性をもっている、という程度の意味だ。
小説ネタなんていうのはシェークスピアをもってすべて終わっているという人間もいる。
じゃあ、つまるところネタをどう料理するかって話になるのであって、これは所詮
技の領域の話だから、たいした仕事・芸術じゃないってもんで、小説と命名された。
決して大説とは言われないゆえんだ。

芥川賞と直木賞、どこが違うんだと言われても困るが、昔だと純文学と大衆小説的な
仕切りがあった。
最近は根暗で重いモノが芥川、明るくて軽いと直木、なんてー感じの線引きの方が
わかりやすかったんだが、どーも、暗けりゃ純文学ってわけじゃアルメーという
ところから、芥川賞離れが始まったような気がしてならない。

で、たまたま、ニュースをみてたら今年の直木賞は「ホテルローヤル」
書いた桜木紫乃はラブホテルの娘という話だ。
がははは、さすが文藝春秋、これで売れなかったら何が売れるの?
彼女が高級旅館の娘だったら、賞もありえなかった@@
いや、そーゆうゲスの勘ぐりをするのは諸君だけであって、俺クラスになると、泰然と
誠意を持って、本を読む・

これが短編の集合体なので、俺のようないい加減な脳みそでも、読みやすい。
それでもって、ネタが官能小説、まあ下ネタにふってあるので、なおさら読みやすい^^
結論は85点くらいでおもしろかった。
同じ北海道の渡辺淳一、あれはバカだったので北海道人はみなマヌケかと思っていたが
桜木のほうが遙か高みを歩いている。

北の大地に行ったのは2回ほどだが、あまり好印象はない。
自然が荒くて繊細さがない。
それが雄大でいいという人間もいるが、俺には自然ですら細やかな配慮が欠けている
ように思えた。
スキーをやっていても、本州のようにシラカバの間を滑り込むとか、遙かかなたに
連峰が見えるということがない。
ただデカイ山があって、長い距離があって、広いコースがあって。
層雲峡、網走から知床に抜けたときも、広大な平地を延々とバスで走り抜けたていどの
印象しか残っていない。
食事はカニやらウニのぶっかけ。
神経が雑な成金・中国人には北海道はあっているが、俺は北海道に醒めていたのだ。

「ホテルローヤル」は徹底的に醒めた話のオンパレードだ。
これは桜木の性が北海道に深く根ざしているからだと思った。
東北、北陸の人間も独特の暗さをもっているが、醒めてはいない。
暗さを小さな炎でチロチロ虐めるような、独特の情念をもっている。
北海道は違う、ちっぽけな火じゃ、極寒のなかを生きていけないと言い切っている。
「星をみていた」という一遍。
主人公は貧しさのなかに消え入ってしまいそうな底辺のおばさん。
オヤジは毎晩勃起して、おばさんを待っている。
ラブホテルでの仕事を終えたオバサンは、夜遅くトボトボ家に帰って、引きこもり風の
オヤジに黙って抱かれる。
「黙って抱かれる」ことで、星のない現実と共存して「教えられた幸せ」を享受している。
なにも足されない、なにも引かされない、タダ消えていく、そんな歴史のなかに数多く
埋もれてきた唯物たちを、むぞうさに大地のなかにほうりなげている。
俺は生あるうちは、「心のひだ」をご本尊にして生きているが、死して後のことについては、
諸行無常。
だから生あるうちに接した自然体としての北海道には何の興味もないが、小説としての
無常世界「北海道」には、いたく引きつけられたのだろう。
これは、あまり好きな言葉ではないが、ここにはエロスの醸造があり、そこに小説の存する
意味があるということだ。

石原慎太郎は『完全な遊戯』という短編を書いている。
内容は精神疾患のオンナを犯し、輪姦し、最後にゴミのように殺してしまう話だ。
「星をみていた」を読んだ後、『完全な遊戯』が奇妙にフラッシュバックした。

『完全な遊戯』については、評価がまっぷたつ・

佐古純一郎は、「もういいかげんにしたまえと叫びたいほどのものである。君たちはこういう
小説が書けることに若さの特権を誇っているのかもしれないが、いったい人間というものを
少しでも考えてみたことがあるのか。石原はどこかで自分の文学は人間復活の可能性の
探求だとうそぶいていたが、作家としての良心を失っていないのなら、少しは自分の言葉に
責任を持つがいいのだ」

江藤・三島は、さすがに、佐古のような間抜けな評論は書いていない。

江藤淳は、「果たして『完璧』という観念に人間的なものがあるか。石原氏がここで試み、
成功したのは、この観念のほとんど厳粛な空虚さを、抽象化された運動の継起のなかに
象徴しようとすることである。『純粋行為』がとらえられればよい」

三島由紀夫は、本作に集中した文壇の悪評におどろいたと述べ、「日本の批評はどうして
かうまで気まぐれなのであるか。『完全な遊戯』は、『太陽の季節』から『処刑の部屋』へと
読んできた読者には、一つの透明な結晶の成就であつて、それ以外のものではない。
この作品の筆致は澄んでゐる。会話の才能が物語をいかにもいきいきと運んでゆくが、
作品の性質は、モダン・バレエのやうなもので、抽象的な美しさに集中してゐる。
ここには肩怒らした石原氏はゐず、さはやかな悪徳の進行に化身してゐる。
一連の汚ならしい暴行と輪姦が、透明な流れのやうにすぎる。ここには自分の方法を
ちやんとした芸術の方法に高めた石原氏がゐるのであると高い評価をし、、、

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「星をみていた」の響きは、チャイコフスキーの悲愴となんら相違はないものなんだが、
コンサートホールで悲愴を聴く聴衆のいかほどが、「星をみていた」を読んで、魅了される
のだろうか。
桜木のおかげで、久しぶりに灰汁のなかで性に溺れる、なじみの異様感を味わった。

こーゆう小説をお昼間から読んでいると、だんだん退廃・清貧に甘んじて、大家業に
悪影響を及ぼす恐れがある・・
資本主義万歳、ヤルキのあるオオカミになれ!
ちょうどナナちゃんがお友達と歌舞伎を観にいくっていうので、夜、銀座で待ち合わせ
することにした。
知り合いの方が、なかなかオイシイ店があるというのだ。
六雁(むつかり)といって、ネットじゃ相当に知られているらしい。
食べログ野菜料理部門全国1位というんだから、野菜はおいしいんだろう@@
俺はそもそも、こーゆう食べ物ランキングなんて、あまり信用しないほうなの。
自分で食べて、自分がおいしいと思ったモノが、おいしい。
俺はコロッケが好きなんだが、そんなことを理解できるオンナも最近は少ない。
いい店のコロッケはおいしいんだ@@
吉本隆明はコロッケが大好物で、誕生日にはヤマにように奥様が揚げていたと
娘さんが書いている。
彼は明白な重度発達障害だから、異様な食狂いだったようだが、コロッケが好きなのは
天才にあっては当然のことなのだ。
そんなわけで、たいして期待もしないで銀座までノコノコ出かけて、シェフおまかせ
コースを食した。
そこのシェフが、すこし変わった病的な風貌をしたオトコで、俺はそーゆうの好きだから、
カウンターに座った途端に機嫌がよくなったのだが、なんと、NHKの「キッチンが走る!」に
出演したんだと@@
おい、その顔でNHKに!、思わず吹き出しそうになったが黙っていた。
で、結論は、いやオイシカッタ^^
鮎が絶品で、どこの鮎?と聞いたら、今日は広島だと@@
鮎はアタマからハラワタまで食べるため、コブリがベストと言われている。
俺も一時アユ釣りにはまっていたから、新鮮なものは飽きるほど食べたが、焼くのが
むずかしい。
京懐石「美濃吉」のアユを誉めてるヤツもいるが、あそこのは、すこし熱を入れすぎで
柔らかいのだが瑞々しさがない。
で、六雁のあゆ。
これは、俺の知る限り、絶品・
こんなウマイあゆ、30年間・何千匹も食べてきたが、はじめてだ。
身はふわふわで柔らかく瑞々しい、まるで釣りたて、生きたまま空輸してくるらしい。
いまどき生きたまま空輸なんて、どこにもあるが、その後の活かし方がウマイんだろう。
焼き加減はカリカリ感と焼き目の入れ具合が絶妙、ハラワタもおいしい@@
ほかの客は2匹なのに、俺とナナちゃんの皿だけ3匹入っていた?
お造りが、白身以外にウニ・伊勢エビ。この伊勢エビが、またオイシイ。。。
むかし神津島で食べたのを思い出した。
コースにないはずのアワビも出るし、ハモがまた、おいしいのなんの。
シェフは関西出身なのかな?
最後にマカロンまで食べて、ハフハフ。
銀座5丁目でアワビ・ウニ・伊勢エビつまみに飲んだら、、、
これで4万円じゃ安すぎると思ってナナちゃんに聞いたら、六雁の板前を知って
いたので、サービスだったようだ・・
しかし通常のシェフおまかせで13000円だから、まことに良心的。
銀座でこれほどのカウンター造作、この値段はまずありえない。
海老蔵事件の六本木と違って、銀座には、やはり品が漂っております。
肩肘はった店じゃありませんから、Gパン・Tシャツでもけっこう。
安心して入れるお店ですから、ぜひ皆様も、お食事にお出かけください。

さて相場のことも書いておこう。
八月も終盤、高値から押して踊り場。
大きく動く気配もなく、しばらくは、こんな感じ。
為替もドル円90円台で膠着。
海外リートは下げがキツク、レアルや豪ドル連動ものは、利回りが30%近くまで
上げてきた。
そろそろ海外リートに関しては買い始めてもいいと思う。
この水準からFXで30%程度のヘッジをかけていけばいいだろう。
アタイは松竹が八月の権利取りなので1万株前後買い増して、ツナギを
入れておいた。
あとは、株を持つ気にもなれなくて、しばらくは不動産。
信用の買いが整理される9~10月ころ潮目がハッキリしてくるかもしれない。
じゃあ、また。
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# by sniperfon | 2013-08-26 16:41  

盛夏の候

伊藤 若冲が2006年復権の後、消え入ろうとしている。

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若冲展が9月に福島で打ち止め。
若冲を見いだしたプライス夫妻の年齢を考えると、これで米国在の若冲画はとうぶん
観ることができない。
しかたないから9月になったら福島まで車を飛ばして行くことになったが、土日だから
人の頭を見にいくようなものだ。
月曜日を休館日にしているところが多いが、普段ヒマなんだから、特別展の時くらい
休み無しで働けといいたい@@
オール讀物6月号から澤田瞳子が若冲を書き始めた。
タイミングがいいので毎月読んでいる。
8月号のなかに宝暦事件の話が出てくる。
公家が尊皇思想からゴタゴタをおこしたつまらない話だが、蟄居を命じられた裏松公世の
家を若冲が訪れる場面がある。
そのときに、公世の家に「芭蕉の木」が植えてあると書いてあるんだな・・
この木は庭に植えると祟りがある。。。。
え?ほんまかいな?
いろいろ調べると、バナナの木ににているんだと、アナタ知ってました?
松尾芭蕉は弟子から贈られた芭蕉の木が気に入って、名前にしたらしい?
真相はよくわからないらしいが、澤田センセイのおかげで、また、お勉強になった。

我が家の花といえば、ねむの木。
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夜なので葉っぱは閉じて寝ているが、夏の暗闇のなかで花はヒッソリと呼吸をしている。
俺はこの花を夜の恋人にすると決めて、それから、大切に育ててきた。
育ててきたといっても、まあ、適当に肥料をやって剪定、霜の管理をしてきただけだが、
もう何年も、梅雨入りのころから秋口まで、俺を裏切ることなく花を貢ぐ。
花言葉は「夢想 歓喜 創造力」

この暑いさなかに、なんと縁あって、歌舞伎と文楽、連チャンでいくことになった。
八月納涼歌舞伎、「狐狸狐狸ばなし」
まあ、歌舞伎のドロドロ物のなかでも筆頭格^^
生臭坊主と人妻おきわが出来てしまった。おきわの夫伊之助はもと上方芝居の女方。
おきわの体を毎晩ベロベロなめ回すスケベ。
そんな夫に嫌気がさしてきたところ、おきわの浮気相手の坊主に縁談が舞い込んだ。
相手は男の体をベロベロ舐めるのが好きな牛女^^^^
おきわは嫉妬に狂うが、坊主は「テメーの旦那を殺したら一緒になってやる」と言い放つ。
真に受けたおきわはスケベ旦那を毒殺、牛女を追い出して坊主に一緒になろうと迫る。
ところが・・・
がははは、こんな下品な話、アタクシには関係ありませんわ・・・なんて顔をした、
オバサマ達が、なんとなく汗っぽくなりながら、ふふふふ笑いながら、異様というか、
狂っているというか、いや、歌舞伎って、まさに、そーなんですよ。
しかも、俺の隣にいたオナゴは、まだ二〇歳前半、こんな話わかるの?って子が
真剣に観てるのね。
最前列にいた母親と二〇歳くらいのお嬢さん、人生を誤らないように@@
おきわは七之助。
いよいよ女形の最盛期に突入の感があり、奇妙な色気がでてきて玉三郎よりいい。
勘九郎も真摯な柔らかみがあって、勘三郎亡き後、中村屋はびくともしない趣。

さて次の日は三谷文楽「其礼成心中」
三谷は「おのれナポレオン」の失敗を確認して、もう観る気がしなくなったのだが、
「其礼成心中」は妙に人気があったので行きたかったの。
チケットがどーしても手に入らずガックリしていたら、「みっちゃん、お元気-」と、
どこからか、かわいい声が聞こえてきたんだな@@
はふはふ、アナタは、ユウちゃんじゃありませんか!
え?文楽にはまっている?「其礼成心中」東京まで観に来る?え、チケット取ってくれる!
いやはや、なんと、ユウちゃんが、文楽のファンになっておりまして、○○さんの後援会に
入っていたんだな。
で、あなた、すぐに実力行使してくれて、チケット取ってくれたんです、
ありがと、ありがと。
そんなわけで、真夏のパルコ劇場へ。
その席がまた、ピッタシの良席で、いたく泣けました。
三谷先生、大夫と三味線を正面の天井近くに宙づりにしたんですね。
だから全体の目線バランスが舞台の中程になる、最前列ですと相当に見上げないと
全景がつかめない。
アタシの席は6列目で、人形と目があいました。
話のほうは三谷版ですから、最初からパシパシ小気味よく走らせていく。
その走らせ方と太夫の声のウネリ具合は齟齬をきたしていなかったので、練りあげ成功と
いってもいいでしょう。
アタシはいつも思うのですが、いろんな意味でのコラボというのは、双方がそれぞれの
世界で、すでに独自なものを形づくっていますね。
とくに文楽には何百年という歴史がある。
その時間の重みで醸造された香りというものを、、三谷先生は簡単に獲得出来るでしょうか。
そんなことは出来るわけがない。
三谷自身が近松の言葉にすり寄ることの困難さを書いています。
じゃあ、どうやって融合するの?どうやって切磋琢磨して止揚して、ステージを上げていくの。
それが楽しみで、あるいは皮相的な目で、観客は観にいっているかもしれない。
だから、腹の練り具合、こーゆう言葉がピンとこない方は、すでに日本芸能とは縁遠い方
だと思うのですが、この練り具合が、うまくいったと感じた次第であります。
そして、やはりというべきか、コラボの力配分では、七割方文楽の色気にアタシは感激したの
であって、残りの三割が三谷采配ということになりましょうか。
劇中、登場人物が文楽を観劇する場面がある。
『心中天網島』です。
そこで光の白い配色が心中する二人を照らし出す、人形の純白な顔、手、首スジ、
うねりくねる腰。
観劇する二人は暗めの黄色い光のなかで身もだえしながら興奮して観ている。
いってみれば我々は箱庭を眺めながら世界を観ているような構図なんですが、その箱庭の
なかで悶えているのは、われわれ観劇者の投影でもあるんです。
そんな奇妙な立体交錯の中で、お人形さんのシロだけが息苦しいほどのリアリティで黒空間
に勃起していく。
はふはふ、いや、勃起とはこーゆうときに使うんですよ。
文楽は血を抜いたエロス、だから、どんなおぞましい風景を眺めようとも、アタイは負の
興奮を伴いながら入っていける。
三谷は人生を生きていく上での知恵を、いろいろ、お人形さんに語らせていました。
あの愚直な言葉の温かみが、もしかしたら、文楽の新しい世界を広げていくかもしれない。
三谷文楽、これだけの成果を上げたのだから、さらに介入すべし・
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# by sniperfon | 2013-08-17 21:04 | Comments(0)